俺のTシャツが干しイカになる前に|映像制作・動画制作ブログ
2018.02.14
以前、ちょっと高いTシャツを買ったことがあるんですよ。
某ブランドが出した、1万円近くの代物で、ふだんファストファッションや中学から着ているTシャツみたいなものばかりの私にとっては、かなり思い切った買い物だったのです。
(ファストファッションの服を5年は着ているのはいうまでもなく)そのTシャツは挑戦的なほどに薄くしなやかな綿でできており、程よく肌にまとわりつく感触は、まるで天女の羽衣のようであり、それは私が考えるTシャツの次元を越え、身体が宇宙と一体化し、ココロがセブンセンシズへ導かれるかのごとく…
とりあえずいいTシャツだったわけです。
しかし、しかしですよ…。
さすが高級なものだと思って感心したのは束の間、
一度着て、洗濯してみたのです。
すると、つい30分前までセブンセンシズ的な繊細な光を放っていたTシャツが、今度は洗濯槽の奥で、おとんのステテコでごわす。みたいな質感で私を出迎えたわけです。
え?
あれ、あんなに高級感に溢れていたのに。いやいや、焦るな、そりゃそうだ、濡れれば質感なんて変わりますからね。
まぁ何かの間違いだろうと思い、干してみました。
柔らかな日差しに包まれる午後、ポカポカなたんぽぽのような太陽のもと、乾いたTシャツを取り込んでみました。
質感がパリパリしている。
…干からびたイカかよ!干しイカかよ!
百歩譲って、私がTシャツの洗い方を間違えたところもあったのかもしれません。
洗剤も市販のそれで、干し方も普通だったし、ていうか家で洗濯した時点で違ったのかも。
なんていうか、ランボルギーニ買ったのに、ハイオク入れてボディを磨く金はねえオーナー、みたいなことだったのかもしれません。なにせココロは錦系平民の出だからすみませんほんとに。
でもなんていうか、これだけはいいたい。
値段云々と言うより、着る前の服を最終プロダクトです、みたいな顔して売るんやあらへんで!!
興奮して思わず関西弁がでましたが、これは別に高い服に限った話ではなくて、例えば木でできたお皿とか、まな板とかそういったものも、安い高いにかかわらず、すぐ痛んでしまうものがあるんです。
塗装が禿げたり、カビが生えやすかったり、湾曲したり。
手入れが悪いと言われれば、そうだけど、でもそうならないものもある。
人によって、値段との対比、いわゆるコスパでどこまで許せるかのラインは、比例的な感覚があるかと思いますが、それでもスグにメッキが剥げるようなものを平気で作る、その感覚が個人的にはもったいないなと思うのです。
結論から言うと、最初の見かけはいいものを作ったけど、その後の日常での使用後はどうなるか知らん、みたいなものを売るんじゃないよ、まぁ要はそういうことでございます。
好意という感情は、最初、見た目や雰囲気によってまず立ち現れ、その後共にいる時間の長さや、接触回数、そして内面的な共感覚によって更に深まっていったりするものだと思うのです。
こと、モノに対してもそれは同じで、古来から器物は100年立つと精霊を宿して付喪神となる、と信じられていたような話も、どこかそれは、長く使えるものに対する敬意とも畏怖とも愛ともつかぬ感情の現れではないでしょうか。
大昔は、金を出せばなんでも買えるような時代でないからこそ、ものを大切にする、あるいは長く使えるものを生み出す、使う、それが当然だったと思うのです。
ちなみに2月3日に行われた節分は、ぶっとい巻き寿司をどこぞに向かって食うためではなく(時代によって変わるものではありますが)この付喪神が、人間に復讐や悪さしに返ってくるのを追い払う意味もあったようです。
ちょっとブログが湿り気を帯びて愚痴っぽくなってしまったのですが、これは自分への戒めなんです。
広告は時代や時流を非常に反映する仕事でありますが、だからといって秒速で捨てられてしまうクリエイティブを作ってしまわないよう、むしろ誰にも見られもしないようなものにならぬよう、常に気を張っていこうという思いを込めてみました。
ヒト、モノ、コトを大事にしないとね。